薬師寺のご案内
[本尊] 薬師如来像
詳しくは「薬師如来像と薬師寺略縁起」をご覧下さい。
阿弥陀三尊像
恵心僧都(源信)は生身の阿弥陀仏を拝みたいとお思いになられ、七日の間、清凉寺(釈迦堂)に籠もって祈願をされました。
すると、七日目の暁、高貴な尼僧が恵心僧都の前に現れ、その導きに従っていくと、紫雲の中より船に乗った阿弥陀三尊が現れて観音勢至菩薩が櫓(ろ)や櫂(かい)で雲の波を漕いで西の空へと去って行かれるのを拝することができたそうです。
恵心僧都はこの感動を後世に伝えようと、その阿弥陀三尊のお姿を彫刻され、当山に残されたといいます。(『薬師堂縁起』より)
後年、修理の際にこの阿弥陀三尊像を描いた江戸時代の版木が発見され、その絵の中では船に乗っておられる阿弥陀三尊像が描かれていました。現在、船は伝わっていませんが、非常に興味深いエピソードです。
- 中央:阿弥陀如来像<京都市指定文化財>
- 左:勢至菩薩像<京都市登録文化財>
- 右:観音菩薩像 (いずれも伝恵心僧都作)
生六道地蔵菩薩像
小野 篁(おののたかむら)は、毎夜東山六波羅にある六道珍皇寺の空井戸から冥土へ出かけて閻魔王を助け、朝になると嵯峨六道町の福正寺にある空井戸からこの世へ戻ってくるのが常でした。
あるとき、地獄に赴いた篁は、猛火の中で苦しむ亡者を救い、その身代わりとなって自ら焼かれておられる地蔵菩薩のお姿を見ました。
篁はその地蔵菩薩の尊さに心を打たれ、そのお姿を彫刻し、冥土の出口にある福正寺にお祀りしたそうです。(『地蔵尊縁起』より)
冥土からこの世に戻ることを「生まれる」ととらえ、そこが「六道」からの出口であることから、この出口を「生六道(しょうろくどう)」といい、この地蔵菩薩像を生六道地蔵菩薩と言うようになったと伝えられています。
なお、福正寺は明治時代に入って廃寺となり、明治13年(1880年)に薬師寺に合併されました。そのとき、この地蔵菩薩像を含め、いくつかの仏像が薬師寺に移されました。
福正寺にあったと言われる空井戸は、残念ながら現在は残っていません。
その他
- 伝嵯峨天皇像<京都市登録文化財>
- 『薬師堂縁起』
- 『薬師如来絵伝』
- 三地蔵尊(境内の石仏。生六道地蔵菩薩の分身、夕霧地蔵菩薩像、瑠璃光地蔵菩薩像)